アジア失明予防の会

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●  ベトナム研修を振り返って(聖マリアンナ医科大学 豊島のぞみ)

 「有り余る程に恵まれた環境で与えられたものを持て余している」、そう感じたときに気がついたのは、「持たない者を補うために一人分よりも多く持たされている」ということだった。誰しもが渇望して生きること、それ自体を諦めざるを得ない人に私が持たされた“それ”を届けたい。単純に思い描いたビジョンには発展途上国の人々の姿があった。私が医者を志す原点はそこにあった。私は現実を目の当たりにしてどう感じるだろうか。ただそれだけを確かめるために、ベトナムで無償の医療活動を続ける眼科医、服部匡志先生の活動に参加した。

 クアンチに向かう夜行列車の朝、服部先生に促されて車窓の外を見ると見渡す限りの田園風景が広がっていた。その限りなく広がる風景の中で点在して作業する農民の姿がある。「ここの人たちは自給自足で貧しい。この場所に生まれたということがそれを運命付けただけのことだけど、文句も言わずに懸命に働いている。あれが足りないとかこれが足りないとか、人生不満を言い出したらきりがない。」服部先生の印象的な言葉だった。

 地方でチャリティー手術を行う際には、内視鏡も眼内レンズも手術道具もすべてダンボールに詰めて持参する。その量には限りがあり、日本のようにすべてが整った環境で手術が行われるわけではない。カマウオでは停電まで起きた。おまけに助手は実際まだ何もできない私たちだ。フエでの手術中の出来事、男の子の眼球にはバックルを巻きつける必要があった。でも前日に使われた残りの半分のバックルは後片付けの際に捨てられてしまい、残りがなかった。「でもこの子にはどうしてもバックルが必要なんですよ。」そう言って、先生は医療用品の端切れを切り取って手製のバックルを作った。「こうじゃなきゃいけないと思った瞬間に可能性は失われていく。」先生は私にそう言ったことがある。「私たちが諦めた瞬間から、その人の眼には二度と光は戻ってこない。」すべては患者さんの人生に光を取り戻すためだ。

 「医者は患者さんといるときが1番ハッピーじゃなきゃね。」先生はすべての手術が終わると、術後の患者さんにカタコトのベトナム語で話しかけながら診てまわる。患者さんたちは最高の笑顔で私たちに手を伸ばし「ありがとう」と言ってくれる。その手を握って先生も私たちも笑顔になる。疲れきった体の内側から温度のある喜びが湧き上がってくるのを感じる。先生が無償の手術を続ける原動力はこの喜びなのだろう。「『してやっている』という意識が生まれたら、その時が活動をやめる時だと思っている。」眼内レンズの詰まったダンボールだらけの狭い夜行列車で、先生はそう言っていた。

 実際に活動はハードだった。私たちは10日間でカマウオ、ハノイ、クアンチ、フエの4ヶ所に行った。「君たちは学生じゃない、スタッフだからね。」その言葉通り、初日のクアンチから手術助手に付き、さっそく服部先生の「ばかやろう!!」の洗礼を浴びた。カウマオでは現地の医師と一緒に2日間で100名を超える患者さんの手術をした。地方では白内障の手術が主だ。私たちが到着すると、すでに大勢の患者さんが座りながら列をなし待っていた。この眼になんとか光を取り戻したい、そう願う患者さんが100名以上も詰めかける様子は熱気に満ち、私たちの姿をその眼で熱心に追う。椅子をセットしてペンライトを持てばそこが診察室。一人ずつ眼の状態を観察し、重症度を記録する。彼らは貧しいため病院へ行くこと、まして手術を受けることは難しい。そのため服部先生が診る時にはすでに最悪の状態になっていることが多い。もちろんその分手術も難航する。

 手術の準備は機材のセッティングも何から何まで一から自分達で行った。運んできたダンボールから患者さんの視力、年齢に合った眼内レンズを選び出す。送ったはずの顕微鏡が届いていないトラブルもあった。すべて現地の医師、看護師との共同作業になる。ベトナムで英語が話せる人は少ない。だからといって服部先生は現地スタッフに英語を強要しない。彼らにとっては日本語も英語も同じなのだ。こちらが相手から少しずつベトナム語を学んでいくしかない。それが最良のコミュニケーションでもあった。私たちが「カモン(ありがとう)」と言えば、そのおかしな発音のせいか、相手からは笑顔がこぼれる。2日間も一緒に仕事をすれば、言葉が通じなくても相手が何を言っているのかはわかるようになってきたし、言いたいことはジェスチャーで伝えられるようになった。適応していくことは気持ちがよかった。新しい自分の可能性みたいなものが何度も掘り起こされる感覚があった。たしかに服部先生の言っていた通りかもしれない。「こうじゃなきゃいけないと思った瞬間に可能性は失われていく。」ここでは固定観念なんて意味を成さない。

 一日の手術が終盤に入った場合、手術に使う医療資材を新しく開封する時は残りの人数をチェックしながら行う。日本から持ってくることのできる医療資材には限りがある。そんなことを考えずに出していって最後に残ってしまうと、服部先生に「○人分を失ったな」と言われてしまう。もちろん「ばかやろう」付きだ。湯水のように使える医療資材なんてない。だけどこれが一つ消費される時、一人の眼に光が取り戻されるはずだという確かな実感がある。私たちはどこへ行くにもダンボールの数を何度も確認しながら持ち運んだ。これがないと手術ができない。国内線で移動するときはいつも重量オーバーすれすれで、なんとか人数で帳尻合わせをした。手術後の機材、道具、床に散らばったゴミもすべて後片付けは自分達の仕事だ。「はっとり(発つ鳥)後を濁さず」(笑)そんなことを言いながら大きな体で窮屈そうに手術台の下のごみを拾う。日本の病院では見られない光景だろう。先生は良い意味で医者らしくない。

 服部先生の手術は持ち込み式の手術といえる。道具も眼内レンズも持ち込んで準備も後片付けも自分達で行う。それでも現地の人の協力は不可欠だ。しかし現地スタッフにもプライドがある。日本人がやってきてああしろ、こうしろと言ってくる。現地スタッフにだって今までのやり方がある。麻酔の直後は眼が硬くなっているため、早めに麻酔をして欲しい。1日に3つの手術台で50人程の手術をするとなると、間隔を空けずにすぐ次の人に移る必要がある。そうしないと終わらない。だから麻酔待ちをしている時間はない。でもそれがなかなか伝わらない。彼女たちには今までのペースがある。ハノイの病院では午後の手術開始の時間になっても現地スタッフはまだ廊下の手術台で昼寝をしていた。ベトナムが社会主義国家であるためか、現地の人たちはそんな感じだ。だから先生はなんでも率先して動く。あれはどこにあるんだとかこれはどうするんだとか私たちが大騒ぎをしていると、彼らも「しかたがないなぁ」という感じで巻き込まれ始める。そうこうしているうちに歩調があってくる。人の行動を変えることは困難でも自分で行動を起こすことは容易だ。きっと先生はそうしてきたのだろう。自分が行動を起こすことで現地スタッフの行動が変わる。先生が失明から救った患者さんは、先生が執刀する患者さんだけではないのかもしれない。先生は手術をして帰るだけではない。現地スタッフの意識が変われば、先生が帰った後も救われる患者さんは増え続ける。

 地方で一日の手術がすべて終わると、現地の病院のスタッフと一緒に夕食を食べに行く。先生いわく、現地スタッフとお酒を飲むことは仲良くなるための1番の方法だ。氷の入ったビールで何度も何度も乾杯して、次第に打ち解けて笑顔になる。先生はここで現地スタッフに、病院で必要な機材はないかとか次に来るときにはあれを持ってこようとか相談をする。大抵は眠くなってしまい、ホテルで眼鏡をつけたまま寝てしまうらしく、よく眼鏡を壊す。初日は朝6時の便でホーチミンからカマウオに飛び、診察、手術が終わり現地スタッフと夕食をとってホテルに戻ったのは午後11時過ぎだった。私は初めての手術助手の緊張感と疲労感でへとへとになり、朝着いた時には「こんな安っぽい部屋に泊まれるだろうか」と思っていたホテルのベッドに心地よく沈んでいった。

 この日から10日間、連日ハードな日程が続いた。初めは手術室で清潔と不潔の区別も付かず、服部先生には何度も「ばかやろう」をもらった。手洗い、手袋のはめ方、手術着の着方から先生に教わった。あとは言葉が通じないため現地スタッフを見て、何が何処にあるか、何をするかを観察して真似ることから始めた。余計なことをして現地の看護師にもよく怒られた。何も出来ないことは初めから百も承知で、それでも自分に出来る最大限を尽くそうと決めて10日間を過ごした。私たちは素晴らしく衛生的で物質的に恵まれた環境で生きている。ベトナムでの活動を通して身に染みてそう感じる。私たちは有り余る程に恵まれているが、すべてを自分のために囲い込んでいる。そのうちの一握りでも、持たない者に分け与えることができるだろうか。術後に患者さんが見せたあの最高の笑顔は、消費してしまう物質とは比較できない。彼らの眼に取り戻された光は灯り続けて、私たちはあの笑顔を忘れることはできない。限られた物資、言葉も通じず誰も何をしたらいいかなんて教えてくれない、そんな状況に適応していくことで、すべてが整った生活の中で埋もれていた新しい自分の能力や可能性みたいなものが現れてくる。「Please come back to Vietnam.」ベトナム人医師で服部先生のパートナーとして地方をまわるホン先生に返した「Maybe」は実現できるだろうか。

ベトナム人医師と一緒にホン先生の手術助手について<br />いるところ。日本語がまったく通じないシチュエーション。<br />今思えば、10日間は足がすくむような状況の連続だった。<br />でもぶつかっていって初めて、適応する能力が与えられる。<br />そう実感することができた。
廊下に椅子をセッティングしてペンライトを手に診察開始。<br />患者さんがいて医者がいる、その場所が診察室。<br />我先にと押し寄せ自分の番を待つ人々が見えるだろうか。<br />彼らには手術を受ける経済力はない。<br />彼らの望みは無償の手術をする服部先生ただ一人。<br />必死の思いを持ってここに来る。<br />ここに来るための交通費でさえ彼らには大金だ。
右から3番目が服部先生、4番目が筆者、5番目が<br />ホン先生。最終日、みんなと別れるとき泣いてしまった。<br />その後に撮った写真。気がつけば私たちはチームに<br />なっていた。家族のようでもあった。患者さんに光を<br />取り戻すというたった一つの目的のもとで、毎日3食を<br />共にして、一緒に手術室に入り、怒鳴られたり笑ったり<br />しながら困難や感動を共有した。
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